第6日 2月19日(火) 襟裳岬~苫小牧 午前6時起床。窓を開ける。空は曇っているが、風もなく穏やかな天気のようだ。まだ、薄暗くて、灯台の光がはっきり見えている。海岸に人の姿は見えなかった。まだ、時間が早いのだろう。洗顔を終え、荷物を整理した。午前7時になっても海岸に人の姿はなかった。今日の昆布拾いはないのだろうか。
食事の時刻になったので食堂へ行った。テーブルに3人分の料理が並んでいた。客は私一人だけだと思っていたのだが、まだ他にも客がいるようだった。食事を終えて部屋へ帰った。再び海岸を覗くと、軽トラックが浜辺を走って行くのが見えた。断崖になった所で、車が止まり、ウエットスーツ姿の人が1人下りた。そして、昆布拾いが始まった。さっそく、私は海岸へ見に行くことにとした。
ホテルの横の凍てついた細い道を下ると、海岸へ出た。海岸には昆布を干す棚がたくさん作ってある。私は、棚の横を通って、ずっと先に停まっている軽トラックの所まで雪の積もった浜辺を歩いて行った。車は3台停まっていた。海岸にはたくさんの昆布が打ち上げられていて、5人の人がそれを拾っていた。そのうち2人は女性だった。昆布を拾っているところをスケッチし始めた。しばらくして昆布を拾っていたお婆さんが、私に近づいて来た。
「おはようございます」と挨拶をすると、お婆さんは、にこにこ笑って「いい絵が描けますか」と言った。「みなさんが、たいへんな仕事をしているので、感心しているのです。昨日は、すごい風が吹いていましたね」と私は言った。「昨日は、灯台の辺りじゃあ、25mの風が吹いていたんだよ。今日はたくさん昆布が拾えるかなあと楽しみにしていたんだよ」とお婆さんは、笑った。

「海は冷たいでしょうね」と聞くと、お婆さんは、昆布拾いのことについて話し始めた。「貴方が考えている程、辛い仕事じゃないよ。ほれ、こんなに服を着ているから、それほど寒くはない。ゴムのウェットスーツは温かいよ。女は浅い所で昆布を拾っているし、男だって、胸の所までしか行かんし、みんなで一緒に拾うようにしているから、波にさらわれて死んだという話は聞いたことがないよ」とお婆さんは自慢していた。「今、昆布を拾っているあの人は、本業は大工さんだよ。仕事がない時は、浜で昆布拾いさ。拾った昆布は、天候にもよるが、1週間ほど干せば売り物になる。漁協に出すと小遣い銭くらいにはなるよ。しかし、何といっても、昆布漁の季節は夏だね。あの岩の向こうには、天然昆布が一面に生えているんだ。それを船で出掛けて行って獲るのだが、船に何杯も獲れた時は嬉しくなっちまうよ」お婆さんは、クシャクシャの笑顔で話してくれた。私は、何年か前の夏に、礼文島で見た昆布漁の風景を思い出していた。

そこへ、中年のおばさんが抱えきれないほどの昆布を引き摺って、やって来た。おばさんは、にこにこ笑いながら、私たちが話している目の前を横切って行った。棚に昆布を干しに行くようだ。お婆さんといい、おばさんといい、辛い表情はどこにも見えなかった。楽しそうに仕事をしているのだった。黒いウエットスーツを来た3人の男の人も海へ入って、黙々と昆布を拾っていた。昆布拾いは、私が考えているような辛いものではなく、寒さを忘れさせてくれるほど、楽しく魅力あるものなのだろうと思った。

元気なお婆さんにお礼を言って海岸を後にした。行く時は、何もなかった棚に、たくさんの昆布が干してあった。厳しい自然の中で、元気に働いている人たちの臭いが昆布から伝わってきた。

ホテルへ帰り、部屋の窓から海岸をスケッチした。その間もずっとあの人たちは昆布拾いを続けていた。バスが来る時刻になったので、リュックを背負ってバス停へ行った。10時半を少し過ぎて、「様似行」JRバスがやって来たので乗車した。やがて、バスは緩やかな坂道を、灯台に向って上って行った。バスの窓から、昆布拾いを続けるあの人たちの姿が小さく見えていた。襟裳岬を代表する冬の風景はこれだと私は思った。

11時半バスは様似駅に到着した。見上げると、遠くに白い雪を被った日高の山並みが美しく見えていた。列車の発車まで40分ほどあるので、食事をすることにした。駅前の食堂へ入った。くたびれたテーブルや椅子が並んでいた。そして、老夫婦が店の切り盛りをしていた。牛丼を注文すると、頭の剥げたお爺さんが、小さな鍋で調理を始めた。調理するところが全て見えてしまうのがさらに悪かったようだ。出て来た牛丼は思っていた通りの味だった。
12時15分様似発「苫小牧行」普通列車に乗車した。1両編成のディーゼル列車だ。乗客は少なくボックスシートを1つ確保した。日高本線に乗って旅をするのは2度目になる。去年は苫小牧から様似まで乗ったが、その日は大荒れの天気で、堤防に打ち寄せる大波のしぶきを被りながら列車が走った所もあった。日高本線は海岸沿いを走るのでは有名な線路だ。列車は定刻通り発車した。しばらくして、広い牧場に放し飼いにされた馬たちの姿が見えるようになった。この辺りは、サラブレッドの生産地である。まだ生まれたばかりの子馬の姿も見える。やがてセリに掛けられて誰かの所有馬になり、競馬場で走るようになるのだろう。しかし、競走馬として名を残すのはほんの数頭なのだろう。世の中が不景気になり、サラブレッドを育てる世界にもその荒波が押し寄せているのだろうと思った。
東静内を過ぎた辺りから列車は海岸沿いを走るようになった。今日の海は穏やかだが、列車は波打ち際をゆっくりと進んで行った。去年、列車が波を被りながら走ったのはこの辺りのようだ。
15時22分、列車は終着の苫小牧に到着した。今日はこの町で1泊する予定だ。駅南口の近くにある「グリーンホテル」ですんなり宿が見つかった。1泊朝食付きで5400円。大都市のホテルは料金が安いと思った。コインランドリ-があるので、溜まっていた洗濯物を洗うことにした。一流ホテルや旅館にはこういうコインランドリ-の施設はない。長旅にはビジネスホテルが合っている。洗濯機に粉石鹸と洗濯物を入れ、料金400円を投入し後は洗い上がるの待った。洗濯が終了し、続いて乾燥機に入れた。料金は10分間で300円。強力な乾燥機で、きれいに乾いていた。風呂にも入り、気分は爽快だった。いよいよ明日で、北海道の旅は終わる。苫小牧の美味しい料理を食べに行くことにした。
薄暗くなった苫小牧の町を歩いて行った。雪が少ないのに驚いた。北海道でも雪の降り方には大きな違いがあるようだ。飲み屋の看板がなかなか見つからない。駅の南口は飲み屋がない所のようだ。大きなドームの前に出た。「苫小牧白鳥アリーナ」という大きな文字が白く輝いていた。スケートリンクがある施設のようだ。苫小牧は「アイスホッケー」で有名な町だということを思い出した。ひょっとしたら、アイスホッケーの試合が見られるのではないか思い、中へ入って行った。

受付に女性が座っていた。「ここでアイスホッケーの試合が見られますか」と聞いた。「残念ですが、今晩は、試合はありません。今、小学生チームが練習をしていますから、見て行かれたらどうですか」と親切に言ってくれた。さっそくスケート場へ入って行った。中は広く、周りは観客席になっていた。リンクの中で、ヘルメットを被った子どもたちが長いスティックを持って、すごいスピードで走りまわっていた。アイスホッケーを間近に見たのはこれが初めてだった。私は、観客席に座ってしばらく練習を見ることにした。
小学生といっても本格的な練習をしていた。激しく衝突したり、器用に後向きに滑ったり、体格は小さいが迫力のある練習をしていた。野球、サッカー、水泳などのスポーツ教室はよく見ていたが、さすがに苫小牧では、アイスホッケーが子どもたちの主流なのだろう。近くに何人かのお母さんが子どもたちの様子を見ていたので、少し話を聞いてみた。「これは、王子製紙アイスホッケーのジュニアチームです。ジュニアチーム同士の大会があるので、特訓中です。将来はアイスホッケーの選手を目指しているのです」と1人のお母さんが話してくれた。一流選手を目指しているという話は、少し興ざめする感じがした。もっとスポーツは楽しむことが必要ではないだろうかと思った。

「苫小牧白鳥アリーナ」のすぐ近くに「王子製紙アイスホッケー場」があるというので見に行くことにした。アイスホッケー場を覗くと、そこでは中学生チームが猛特訓をしていた。中学生チームの迫力はもっと凄いものがあった。苫小牧はアイスホッケーが本当に盛んな町だった。
夜の苫小牧の町をかなり歩いて、やっと居酒屋を見つけた。入口の戸を開けて中へ入った。カウンター席が並んだ店だった。お客は若者が1人いた。中年のお上さんが料理をしていた。ビールを注文した。「魚は赤カレイの煮付けがあります」というので、それを食べることにした。少し味付けが薄いように感じた。続いてホッケの焼き物を注文した。特に美味しいとは感じなかった。味はさほどでもないのに、勘定は3300円だった。高い店だった。
飲み直しに、中華料理店を見つけて中へ入る。最近開店したばかりという雰囲気がした。店の娘さんらしい人が、たどたどしい日本語で注文を聞きに来た。中国人が経営する本格的な店のようだ。四川ラーメンと老酒を注文した。老酒は甘くて少し飲んで飲めなくなった。本場の味なのだろうが、やはり飲みなれないものはやめとけばよかった。続いて出て来た四川ラーメンは、ラーメンが少々粉っぽい感じだった。これも本場の味なのだろうか。北海道最後の夕食は、不満が残る状態で終わった。明日は、札幌の町を見学し、飛行機に乗って帰る。「北海道フリーきっぷ」の旅は間もなく終了する。