2月14日(土)呼子(佐賀)~玄界灘(佐賀)~諫早(長崎) 名護屋城の見学を終え、波戸岬へ車を走らせることにした。玄海灘に突き出た岬はたいへん景色がいいというのだ。岬へ向かう道で、風は一層強くなった。車が横揺れを起こすほどだ。ラジオから「九州地方で今日、春一番が吹きました」と聞こえて来た。春到来とは、嬉しいニュースである。旅先で春一番を体験したのは、今回が初めてのような気がした。
波戸岬に到着した。小さな駐車場の横に茶店が一〇軒ほど並んでいた。そこから岬の突端に向かって遊歩道が延び、海の中が観察できるという玄海海中展望塔も見えていた。海岸には大波が打ち寄せている。荒れる玄界灘は、迫力満点である。その波の中に人がいる。サーフィンを楽しむ若者だった。大波を待ち受け、その波に乗ろうと頑張っているのだ。旅人には無謀のように思えるのだが、サーファーにとってはこの波こそ最高なのであろう。やって来た観光客たちも呆れ顔で若者を見つめていた。


もっと無謀な人を見つけた。荒れる玄海灘を小さな漁船が走って行くのだ。対岸に見える島へ行こうというのだろうか。小さな漁船は大波に見え隠れしている。横波を受ければたちまち転覆してしまいそうだった。どうしてこんな荒海に船を出さなくてはいけないのだろうか。急病人でもいるのだろうか。ハラハラ、ドキドキしながら、進んで行く漁船を見つめていた。漁船の姿は、だんだん小さくなり、やがて見えなくなった。無事渡ることができたのだろうか。佐賀県に入って、驚かされることが多い。

時刻は昼時。茶店で昼食にする。茶店では、磯焼きと称して、アワビ、サザエ、イカなどを焼いている。一皿500円と手ごろな値段である。どの店も観光客で混んでいた。今日は土曜日なので、賑わっているのだ。混んでいない店を見つけ中へ入った。おばあさんが、店番をしていた。旅人はサザエの壷焼きを注文した。籠の中から、おばあさんは手ごろな大きさのサザエを取り出し、コンロの金網の上に載せた。焼けるまでには少し時間が掛かりそうだ。「賑わっていていいですね」と旅人が声を掛けると、「そうですね。春になったから、観光客も多くなって嬉しいですよ」とおばあさんは言った。「ここにはたくさん店がありますね。それだけお客さんがたくさん来るということですね」と旅人が言うと、「店がたくさんあるから、大変なのですよ。土・日の休日は何とかやっていけますが、平日は観光客が少ないから、店の半分は、休業にしているのですよ。一週間の半分は交代で休むのです。だから小遣い銭くらしか稼げないのですよ」と苦しい経営の実情を話してくれた。サザエの壷焼きが、皿に乗って出て来た。大きなサザエが五つ乗っていた。熱々のサザエは、独特の苦味があって美味しかった。酒があればもっと美味しかったのだろう。

岬の突端にあるという灯台を見に行った。強風で体が飛ばされそうである。遊歩道の脇にタンポポの黄色い花を見つけた。ここは春が早く来ているようだ。小さな鳥居を抜けた所に灯台があった。その脇に小さな神社があり、お供え物が供えてあった。海の安全を祈願する氏神様のようだ。社の向こうに大荒れの玄海灘が見えていた。
玄海灘に別れを告げ、一気に佐賀県を縦断して、有明海に行くことにした。朝には、確か「呼子港」へ行こうと思っていた。それが、いろいろ寄り道する中で、最初の目的地「呼子港」はどこかへ行ってしまい、今、旅人の頭にある目的地は、有明海なのだ。「荒々しい海は見たし、次は佐賀県の反対側にある静かな有明海を見よう」という気になったのだ。誰かと一緒に旅をしていたら、「とてもじゃないがつい合いきれない」ということになるのだが、気ままな一人旅だからこそできるのだ。
国道204号線を走って行く。鎮西町から玄海町へ入る。玄海原子力発電所という看板が立っていた。ここにも原子力発電所があるのかと思った。大きな橋を渡ると、どこかで見たような建物が見えてきた。原子力発電所だった。
玄海町から肥前町に入った。くねくねと曲がった細い山道になり、スピードを落として走った。肥前町を抜けると伊万里市だった。共に焼き物で有名な町である。美術館を見つけて見学したらいいのだろうが、旅人は、唐津焼を見たことで満足していた。見学は、別の機会に譲ることにした。
伊万里市から武雄市を抜けて鹿島市へ向かう。名前を初めて聞く町が続く。 鹿島といえば、茨城県を連想するのだが、佐賀県にも鹿島があるとは驚く。それも鹿島市である。後で分かったのだが、茨城県は鹿嶋市と書くのだそうだ。佐賀県のことについては本当に何も知らない旅人だった。
海が見えてきた。波戸岬から2時間近く車を走らせてようやく有明海に到着した。相変わらず強い風が吹いていたが、海に波は見えなかった。それもそのはず、海岸からずっと先の方まで、海が干上がっているのだ。有明海には広大な干潟があると聞いていたが、その通りだ。左手に干潟を見ながらしばらく走ると、大きな道の駅が見えてきた。道の駅「鹿島」と表示がある。

堤防に座って干潟を眺めた。この干潟にはたくさんの生き物が住んでいるという、その代表がムツゴロウだ。干潟の中へ入っていけば見られるのかもしれないが、たちまち泥に埋まってしまうだろう。よく見ると干潟に太い筋のようなものが幾つも付いていた。何かが走った跡のようだ。ひょっとすると泥の中を進むのに使うソリの跡なのかも知れないと思った。
道の駅で、バーベキューを楽しんでいるグループがいた。大きなカキをそのまま炭火の上で焼いている。豪快な料理だった。「焼きカキ お一人様1000円」という張り紙もある。有明海ではカキの養殖が盛んなようだ。道の駅には、魚介類コーナーもあり、有明海で獲れた魚が並んでいた。大きなハゼやカキは分かったが、真っ黒なカニは初めて見るものだった。グロテスクなカニだ。美味しいのだろうか。大きな魚や貝も並んでいたが、どれも初めて見るものだった。干潟には干潟特有の魚が住んでいるようだ。ムツゴロウの姿がなかったのが残念だった。

この近くに有明海を埋め立てて作った諫早干拓地があるというので見に行くことにした。国会でも論議されている。海を締め切るために作られた排水門は、その象徴としてよくテレビに登場していた。排水門を閉じたことで、赤潮が発生したり、魚介類の収穫量が減ったりしたことが大きな問題となり、一昨年、試験的に水門が開かれていた。
有明海に沿った国道を走って行く。「焼きカキ」という幟を幾つも見かけた。カキを食べる季節なのだろう。「さっき食べればよかったかな」と後悔した。
長崎県に入った。諫早干拓地は長崎県にあるのだ。しばらく走ると、遠くに水門が見えるようになった。大きな塔が何本も立っている。どこかで見た建物に似ていた。長良川河口堰の水門とよく似た形をしていた。同じ頃に作られたものだから、似ているのだろうか。ひょっとしたら、設計者が同じなのかもしれないと思った。水門へ続く脇道を見つけ、しばらく進むと、巨大な水門が目の前に姿を現した。7本の巨大な塔が立っている。諫早干拓地のシンボルである。水門の両端には、堤防が続いている。諫早湾を締め切った堤防は、対岸に向かって延々と続き、その端は霞んで見えなかった。水門の内側は、広大な干拓地だった。冬枯れして褐色になった草原が広がっていた。大きな池もある。干拓地は全てが埋め立てられたのではないようだ。

草原を少し歩いてみた。貝殻があちらこちらに落ちている。以前、海だったことを示す証拠だった。この土の中にはここで死んだ海の生き物たちの骨も埋まっているのだろう。広大な干拓地ができ、そこには田んぼや畑ができ、食糧の増産がどんどん進んでいるというなら納得もできるが、荒地が延々と続いているのだ。一方、水門ができて海が遮断され、そのために有明海の汚染が進んでいるという。何でこんな巨大なものを作らなくてはならなかったのか、腹立たしい気持ちになった旅人だった。振り返ると、7本の巨大な水門が夕日を受けて輝いていた。干拓地のシンボルは、これからも論議を呼びながら、ここに聳え続けるのだろう。
時刻は5時を過ぎていた。今日は、諫早で宿を見つけることにした。車の中ということも考えたが、この近くに道の駅はないようだ。諫早駅前の旅館を何軒かあたり、「食事は出せませんがいいですか」という条件で、ようやく小さな旅館を見つけることが出来た。今日は土曜日で、どこも満室だったのだ。
風呂へ入り、さっぱりしたところで夕食に出掛けた。近くに小さな居酒屋を見つけ、中へ入ると、メガネを掛けた小太りの親父さんが店を切り盛りしていた。まだ時間が早いのか客はいない。旅人は焼酎の水割りと焼き鳥を注文した。しばらくして氷の入った焼酎が出て来た。サツマイモの味がする焼酎だった。
「さっき干拓地の水門を見て来たのですよ」と旅人は、親父さんに話し掛けた。飲み屋では、いつも旅人から声を掛けるのが普通になっている。「仕事ですか」と親父さんは、焼き鳥を焼きながら聞いて来た。「旅行に来たのですが、水門が話題を呼んでいるので、見て来たのです」と旅人は答えた。「大きな水門だったでしょう」親父さんは自慢するような口調で言った。「あの水門のことでいろいろ問題になっているが、長崎の者は、皆埋め立てで保証金を貰ってしまったから、騒いでいないよ。騒いでいるのは、佐賀県や熊本県の人たちだね。保証金が貰えなかったから、騒いでいるのかね」親父さんは、涼しい顔で話している。せっかく飲みに来たのに、親父さんと口論するつもりは旅人にはない。話題を変えて、景色のいい所を教えてもらうことにした。
「そうだね。この辺りで一番と言ったら、やはり雲仙だね。諫早湾の向かいに聳える山だよ。見なかったかい。とにかく温泉がいいよ。のんびり温泉に浸かって行ったらどうかね」親父さんは、親切にいろいろ教えてくれる。「雲仙を見た後は、島原まで行って普賢岳を見るといいよ。とにかく凄いから。土石流に埋まった家もそのまま残っているから、自然の恐ろしさを教えてくれるよ。その後は、フェリーで天草へも行けるし、熊本にも行けるし、明日はぜひ雲仙へ行きなさい」親父さんは、自分が旅しているような気分になっていた。何杯か焼酎をお代りし、腹も膨れ、店を出る頃にはすっかり出来上がった旅人だった。「雲仙普賢岳に会いに行こう」明日の目的地は、そういうことで決まった。気ままな一人旅は、本当に気ままな旅なのだ。