水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡かいわいの昔ばなし  その10  「蟹寺 籠の渡し」伝説  富山市蟹寺

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その10  「蟹寺 籠の渡し」伝説  富山市蟹寺
 
へいあんじだいの おわり、ぶしたちが、きぞくたちに かわって、しだいに 力を もちはじめたころの お話です。
一一五九年、ぶしの 中でも 大きな 力を もっていた 「源氏(げんじ)」と「平氏(へいし)」が 大きな たたかいを しました。平治の乱(へいじのらん)といいます。このたたかいは、平氏が かち、まけた 源氏の たいしょうだった 源義朝(みなもとのよしとも)は、みのの国 青墓宿(あおはかしゅく) (げんざいの ぎふけん みのあかさか)に おちぶれて みを かくしました。しかし、いつの日か ふたたび、京(きょう)に 上り、平氏を うちやぶりたいと、かんがえていました。
その 義朝の ちょうなんが、源義平(みなもとのよしひら)です。いつもは 悪源太義平(あくげんた よしひら)と なのって いました。
悪源太義平は、飛騨の国(ひだのくに)の 白川郷(しらかわごう)から 高原郷(たかはらごう)へと  へいを あつめながら、京に せめ入るための じゅんびを すすめていました。
よしだ(かみおか)に すむ ごうぞく 左兵衛(さえもん)は、悪源太義平のいさましさに かんしんし、じぶんの かわいい 二人の むすめ、姉の 八重菊(やえぎく)と 妹の 八重牡丹(やえぼたん)を、義平の つまに してもらいました。(このじだいは、おとのさまには たくさんの おくさんが いました。)
しばらくして、父 義朝が なくなったと 聞き、悪源太義平は、いまこそ 平氏を うたなければならないと けっしんして、京へ せめいりました。義平は、平氏と いさましく たたかいましが、平清盛(たいらのきよもり)に とらえられ、ついに、六条川原(ろくじょうかわら)で うち首に なりました。年は わずかに 二十さい でした。
このことを 風のたよりに 聞いた八重菊と 八重牡丹は、悪源太義平のたましいを なぐさめようと 思い立ち、二人だけで 京へ 上ることに しました。
そして、ちょうど 通りかかったのが、飛騨(ひだ)と越中(えっちゅう)の 国ざかいにある 「蟹寺(かにでら)のかごのわたし」です。 ふつうなら、村人を よんで わたるのですが、自分たちの みぶんは 源氏で、しかも、京へ しのんで 行く たびです。
村人に たのむことも できず、二人で こっそりわたることに しました。
さきに、姉の 八重菊が わたろうと したところ、とちゅうで あやまって、せんじんのふちに おち、げきりゅうに のまれて しまいました。これを 見ていた 妹の 八重牡丹は、「自分 一人が とりのこされて、 このよに 何が うれしいことか」と なげきかなしんで 自分も みを おどらせて、このふちに とびこんで しまいました。しばらくして、二人の なきがらは、かりゅうの 薄波(うすなみ)の 近くで うきあがった ということです。
村人は、京にも 行けず、おっとの あとを おった 二人を、たいへん かなしく おもって、「よしだ八重菊・八重牡丹 名をばとどめた この谷に」と うたいました。
その後、村人たちは、どのような みのうえの かたでも、女や子どもが かごのわたしに 
さしかかった時は、りょうぎしから つなをひくように、もうしあわせた と いうことです。
細入村史
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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