その36 星崎城跡 南区本星崎町本城歴史
鎌倉時代
治承年間(1177年-1181年)に山田重忠が築城した。山田氏が居城していたが、他の地域に移りすんだので廃城になった。
戦国時代
鳴海の豪族だった花井右衛門兵衛がここを居城にした。山口教継の謀反により、花井右衛門兵衛の領地が織田信長に没収され、岡田直教が城主になった。天正12年(1584年)岡田直教の家臣である山口重勝が城主になった。山口重勝の娘が豊臣秀次の側室となったが、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉が秀次に謀反の疑いにより自刃に追い込んだ後、親族も共に処刑され、山口重勝も自刃した。
その後、織田氏の家臣である岡田重善、岡田重孝が城主になった。織田信雄の伊勢国移封に伴い、後の牛久藩初代藩主山口重政が城主になったが、茂福城と領地を換える事になったため、廃城になった。
現代]
現在は名古屋市立笠寺小学校、宅地になっており井戸以外のものは残っていない。名古屋市立笠寺小学校と近くにある秋葉神社に石碑がある。
「星崎城―Wikipedia」
大きさ
星崎古城絵図(蓮左文庫(ほうさぶんこ))によれば、城域は東西約350メートル、南北約450メートルに及び、本丸の南東に天守閣がありました。本丸は現在の笠寺小学校の場所にあり、東西が約47メートル、南北が約61メートルあったといわれています。二の丸、三の丸、大手門は、校門南側の住宅地一帯に位置していました。台地東下には侍屋敷があり、城と一体化した総構え(そうがまえ)の堀で守られていました。
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