今日紹介するのは、文山秀三著「人生日記」です。
この作品は、文山秀三著「満洲物語」の続編で、兵役除隊から、終戦、戦後の生活を綴った自伝的小説の完結編です。
その中にある、富山大空襲について書かれた章を紹介します。
『
富 山 市 大 空 襲 「絶対死守」と言われていたサイパン島の日本軍も「玉砕」し、沖縄も、米軍に占領された。制空権をほとんど米軍に奪われてからは、米空軍による日本各地での無差別爆撃が、毎日のように繰り返され、焼夷弾が、所構わず落された。我が国の主要都市は、次々に灰燼と化して行った。
東京、大阪はもちろん、名古屋も、すでに焼夷弾による「絨毯爆撃」をされたことが報じられた。「富山のような中都市へは、まさか米空軍といえども、空襲には来ないだろう」との希望的観測が、一部にあった。それは、不二越という軍需工場はあるにせよ、軍事基地も、軍事施設らしい物も無かったからである。米軍による空襲が頻繁になってから、私は、工場の防衛隊の一員になっていた。五日に一回くらい、その夜は、工場で過ごし、防衛の任に当っていた。
忘れもしない昭和二十年八月一日の夜半(正確に言うと八月二日未明になる)、中部管区司令部から、「米空軍B29(重爆撃機で、空の要塞と呼ばれていた)の大編隊が、伊勢湾に向い北上中」との警戒警報が発せられた。直ちに、灯火管制に入り、次の情報を待った。大編隊は、名古屋上空を過ぎても、北上を続けて、岐阜上空をも通過した。このまま北上すれば、富山市を目指していることは、誰にもはっきりした。サイレンは、けたたましく鳴り響き、人の動きも、夜半ではあったが、皆起き出て、それぞれの準備をしていた。防空頭巾を被り、非常食を持ち、防空壕へいつでも入れるように準備していた。
米空軍は、日本軍の高射砲などには目もくれず、やがて、無人の野を行くように富山上空に到達し、旋回し始めた。その夜、私は、工場防衛隊の一員として、不二越の工場内に待機し、米空軍の行動を監視していた。兵器を持っていない私に出来ることは、火災を最小限度にくい止めることだけであった。防衛隊員の中には、自分の家が心配になって、こっそり工場を抜け出て、家へ帰った者もあったが、それらは、黙って見逃した。
その内、B29から、照明弾が落された。富山市の町並みは、一瞬昼のように明るくなり、町並みを見定めた彼等は、風向きを知るために焼夷弾を落した。このテスト焼夷弾が風下に当ったことを確認した米軍は、旋回した後、南富山方面から、次々に焼夷弾による絨毯爆撃を開始した。B29の機数は、私が数えただけでも六十機に達していた。その一機毎に、三十六個のドラム缶のような形の容器を積み、その一容器毎に、百二十個の焼夷弾が入っていると聞かされていた(これの詳細は、別に調査し正確を期したい)。その時落 された焼夷弾の数は、その計算でいくと、旧富山市街地居住人口の二倍以上に当ることになる。
炎暑の八月、空爆は凄まじかった。鈍い音をたてた後、焼夷弾が、シュルシュルと音と共に落下して来た。青白い炎が飛び散り、辺りはたちまち燃え広がっていった。紅蓮の炎が渦巻く中で、人々は、逃げ場を求めて走り出し、防空壕の中で避難していた者も飛び出した。しかし、どちらを向いても、火炎の中では、遂に、煙に巻かれて死んだ者も多かった。全く「阿鼻叫喚」と表現される「生地獄」が、富山市の各地で発生したあの時の有り様は、私にとって、永久に忘れ得ぬものの一つであろう。
天が真赤に染まり、炎が百mの高さにまで燃え上った。米軍による悪魔の火は、富山市の家も木も草も電柱も(その頃、木柱だった)、その他の何物をも焼き尽して行った。あの火勢では、消防など何の役にも立たず、その消防自動車も、焼けてしまった。不二越には、すぐ横を走る立山線の枕木に、焼夷弾が落下したが、幸い、工場には命中しなかった。B29による爆撃の終わり頃、不二越にすぐ近い東部小学校へ、焼夷弾が命中し、大きな火柱と共に全焼したのが見えた。
空襲を終えた米空軍B29の大編隊は、無キズでゆうゆうと南下し、基地へ帰って行った。富山市では、その後も、相当長時間燃え続けていた。悪夢であってくれればと思ったものの、地獄の真只中と思われる富山市の惨状の全ては、現実だった。 』
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