水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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猪谷の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 猪谷の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 一本木の村境の碑

 国道脇の猪谷と片掛の村境に、昔大きなケヤキの木が一本植わっていた。ここは地名を一本木といい、猪谷と片掛の境界を示す大切な木であった。
 戦後、物資不足でケヤキの木が高値で売買されており、境界の土地を有する両方の地主が相談し、高岡の材木商に売るため伐採してしまった。両村としては大切な目印であったため、新たな目印が必要となり、相談の結果、境界に永久的に残る石柱を建てることになった。費用は両地主負担で「村境」と彫った大きな石柱が建立された。
「細入村史」

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P5 砂場集落の地蔵様   

 猪谷から片掛に向かう途中に、今は廃村になり、建物は何一つ残っていないが、砂場集落があった。
 昭和十五年(一九四〇)一月二十九日、雪が四日間降り続き、県下各地で積雪は三メートル前後に達し、笹津では四百四十センチという豪雪になった。全てのものが新雪で覆い尽くされた中、午前十一時半頃、洞山から表層雪崩が発生し、高山線と 砂場集落を襲った。
 鉄橋や橋梁、五軒あった集落の二軒を飛ばした。二軒の内一軒は、対岸まで押し出された。七名の命が奪われ、高山線は約十日間、不通になった。
難を逃れた三軒は、猪谷へ転居し、砂場集落はなくなった。その後、防雪林や防護柵など鉄道林を多くして、事故防止を図っている。国道脇にある地蔵様は、その跡に建てられたものである。    
「細入村史」

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P6 猪谷川河岸公園

 猪谷川に架かる鉄橋を普通列車が渡って行く。列車からは、この川の少し上流にある常虹の滝も眺めることができる。
 鉄橋の下には、駐車場やバーベキュー施設・トイレなどが設けられ、小さな公園になっているが、現在は、閉鎖されている。
 川原は、自然の岩石を使って敷き詰められ、子どもが水遊びを楽しむことができるように工夫されている。常虹の滝まで行くことができる遊歩道は、落石の危険があるため閉鎖されている。
「細入村史」参照

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P7 百衣観音
 
 常虹の滝の横に観音堂があり、白衣観音座像が安置されている。三十三観音の一つとされ、息災延命や安産、育児などの祈願の本尊である。
 そのすぐ下には、不動明王が祀られている。毎年八月下旬の土曜日には、お不動祭りが行われる。
「細入村史」

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P7 常虹の滝

 猪谷川の下流、国道四一号線から四百mほど入った所に見事な滝がある。滝は、大小合わせて四本。その内の一つが、常虹の滝(とこにじのたき)と呼ばれている。天気がよい午前中、この滝の裾野に美しい虹が架かることから、「常虹の滝」と名前が付いた。
 階段を下りると、大きな滝が目の前に迫って来る。轟々と流れ落ちる滝の音が、身体に伝わって来て、迫力満点である。
 この滝には、「その昔、この辺りは、蛇歯見ケ池という大きな池であったが、池の主の大蛇が昇天する際に暴風となり、池が氾濫崩壊して、そこに数条の滝ができた」という伝説が伝わっている。
「細入村史」

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P8 山の神・水神様

 猪谷集落西の棚田が続く桐谷道の平地の突端に、山の神を祀ったお堂がある。山仕事や田畑の仕事の無病息災、五穀豊穣を願い、建てられたもので、「大山祇神(ツミノカミ)」が祀られている。四月末の日曜日に、男たちが集まり、西禅寺の住職を招いて読経し、祭りを行っている。
 また、広場の片隅の小さいお堂には、水神様が祀ってある。猪谷集落を流れる用水路の水は、この奥にある猪谷川から引き水をしている。
「細入村史」

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P9 猪谷川断層
 
神通川は猪谷川との合流点で直角に曲がっている。ここは猪谷川に沿って断層が走り、大沢野小糸・伏木・吉野地区一帯に向かっている。猪谷川付近から南側は砂岩頁岩の互層である。断層の北側は小糸・伏木・吉野・片掛側が花崗岩になっている。
 猪谷川付近の断層は崩れやすいので国道に沿って猪谷洞門が造られ安全に車か通れるようにしてある。
「細入村史」

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P10 双体道祖神
 
 猪谷集落の北の端、国道脇の川側に小さな広場があり、そこに小さなお堂がある。中に男女二神の石像があり、男神は杯、女神は酒器を持っている双体道祖神である。
 道祖神は一般的に「サイの神様」「セイの神様」といい、道の安全や集落の悪霊、悪疫、災難の侵入を防ぐ神様「塞の神」、男女二神像から夫婦和合、子宝の神様「性の神」と、広い信仰の対象として祀られている。
 明治三十五年(一九〇二)に子宝を願って建立されたもので、細入地区では、ただ一体しかない道祖神である。           「細入村史」

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P11 神岡軌道猪谷三井鉄橋の橋脚跡

 神岡鉱山から産出された鉛や亜鉛などの鉱石は、大正時代には、高原川右岸、神通川右岸に作られた神岡軌道により、船津から笹津を経由して富山まで運ばれていた。
 昭和二年(一九二七)には、馬車からガソリンエンジンの機関車が引く貨車に切り替えられた。

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 昭和五年(一九三〇)十一月、飛越線が猪谷まで開通すると、三井鉱山は、昭和六年、神岡軌道を猪谷駅構内へ乗り入れた。この時に建設されたのが、猪谷の三井鉄橋である。この鉄橋は、長さ二百八十メートル、高さ三十六メートルで、その後長く付近の景観を引き締め、神通峡の美観の一要素となった。極めて高い橋脚を持つ鉄橋で、高所恐怖症の人は近寄るのも恐れると思われるが、対岸の吉野・伏木・小糸方面の人は、猪谷への通勤・通学によくこの鉄橋を利用したものである。
 昭和四十一年(一九六六)、国鉄神岡線の開通に伴って神岡軌道は廃止され、猪谷名物の鉄橋も、その数年後取り払われた。ダムの湖水に残る橋脚が、そのかつての存在を伝えている。
「細入村史」

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P13 善光寺尼宮様お手植えの松
  
 県道脇の不動明王堂の横に松の木がある。これは昭和三年(一九二八)九月九日に高山市に建立された善光寺別院の落慶式に参列されるため、善光寺智栄尼宮(皇族出身の姫宮)様が長野から富山、富山から笹津まで鉄道を利用され、笹津より乗合自動車で高山までお出でになる際に、乗合自動車の乗り継ぎ点であった猪谷の土田上水館で休憩された時に、自ら鍬を手にしてお植えになった松の木である。。      
「細入村史」

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P14 アメダス定点観測所

 毎年冬になると、猪谷の積雪情報がニュースで流れる。猪谷に設置されたアメダスの観測所のデータが貴重な役割を果たしている。
アメダスとは、「地域気象観測システム」のことを言い、雨、風、雪などの気象状況を時間的、地域的に細かく監視するために、昭和四九年(一九七四)十一月一日から運用を開始した。猪谷にあるアメダスは、降雨量と降雪量のデータのみを記録している。
観測所の周囲には、風の通りを妨げないような柵を設置し、外部からの侵入をできるだけ防いでいる。また、さらにその周囲は開けた場所とし、樹木や建物などによって日光が遮られたり、風通しが悪くなったりしないよう配慮されている。               「ウィキペディア」参照

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P15 細入南部地区センター
 
 この敷地には、以前猪谷小学校があった。現在は、建物が改築されて細入南部地区センターとなり、地域住民の活動の場となっている。
 旧猪谷小学校の沿革史は次のようである。
 明治七年(一八七四)に猪谷関所の役人をしていた橋本作七郎の自宅を啓蒙小学校として創設し、その後石田・本多・出島・西禅寺と転々と住居を借用していたが、明治二〇年(一八八七)に猪谷小学校となり猪谷二一六番地に校舎を建てた。大正一五年(一九二六)に片掛分教場を統合した。昭和四二年(一九六七)に地上一部四階建ての近代的な校舎を竣工、細入村大沢野町学校組合立猪谷小学校となった。加賀沢分校、下夕地区の伏木、東猪谷両分校を統合した。昭和四五年(一九七〇)体育館を新築。平成一五年(二〇〇三)三月閉校、楡原小学校と統合し神通碧小学校として再出発した。
「細入村史」参照

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P16 殉職教員慰霊碑
 
 神通川には、長年、下夕地域(舟渡、小糸、伏木)と猪谷をつなぐ橋が、なかった。下夕地域の人々は、神岡鉱山軌道の眼もくらむような猪谷三井鉄橋を、危険を承知で、通行して、神通川を渡っていたのである。
 昭和二十三年(一九四八)、新制猪谷中学校の建設に伴い、下夕地域に住む中学生の通学の安全から、舟渡と猪谷をつなぐ吊橋を建設することになった。工事は、順調に進み、昭和二十四年(一九四九)、下夕地域の人たちにとって、念願の橋が完成した。
 村の橋梁検査を終え、九月二十六日には、県の検査を受けるという九月二十二日のことである。国指定の天然記念物になっている「猪谷の背斜・向斜」の地層を観察するため、新設されたばかりの猪谷新橋を渡っていた八尾区域小学校教育研究会の先生たちが、突如、吊橋のワイヤーを支えているアンカーボルトが破損し、吊橋もろとも落下し、神通川の激流に呑まれるという大惨事が発生したのである。この事故で、二十九名の先生が殉職した。慰霊碑が、吊橋落下地点近くの川辺に建てられた。現在、慰霊碑は、旧猪谷小学校校庭に移設された。
 この事故の後、下夕地域の人たちは、猪谷へ渡る橋がなくなり、再び、神岡軌道猪谷三井鉄橋を渡らねばならないことになった。細入・下夕両村は、再度、同じ地点に強力な吊橋を建設するべく、強力な請願運動を展開した。この努力によって、昭和二十五年(一九五〇)、国・県の補助を受けて、再び吊橋の建設が着工され、翌昭和二十六年(一九五一)四月一日、悲願の吊橋が完成し、「神峡橋」と名付けられた。このようにして、下夕地域に住む人たちが、安心して神通川を渡れるようになったということである。
 昭和四十年代に入り、細入村と下夕地域を直接結ぶ橋が、続々と永久橋化されていった。昭和四十四年(一九六九)、猪谷から下夕地域の舟渡に至る神峡橋が、猪谷駅前から直線で繋がる形で、永久橋化され、旧神峡橋は取り払われ、今に至る。
「細入村史」参照

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P18 神岡鉱山猪谷事務所跡 
 
 三井鉱山は、製品を搬出するため,大正二年(一九一三)笹津より専用軌道の工事にかかり、大正一二年(一九二三)船津までの三六キロの軌道を完成させ、三〇数台の軌道馬車挽きで富山鉄道の笹津駅へ搬出していた。その後、馬車挽きからガソリン車に変わった。
 昭和五年(一九三〇)飛越線(現在の高山線)が猪谷まで開通したことにより、対岸の舟渡地内より神通川を渡りこれに直結するように高さ七六メートル、レール幅六七センチの巨大な鉄橋を作り猪谷駅構内に乗り入れるようになった。昭和六年(一九三一)には猪谷地区の二分の一近くの広大な敷地に三井鉱山猪谷事務所を建設し、隣接して購買部、診療所等を建設した。
 昭和四一年(一九六六)「国鉄神岡線」の開通により神岡軌道は廃止され、猪谷事務所等関係施設は撤去された。
 鉱山の広い敷地の一部に猪谷小学校の校舎が建設され、昭和四三年(一九六八)に鉱山従業員用の鉄筋五階建てのアパート二棟が建設され、六〇世帯が入り賑わいを呈した。鉱山の事業縮小から国鉄神岡線は廃止され、第三セクターの神岡鉄道が営業を行ったが、これも平成一八年(二〇〇六)廃止になった。アパートも閉鎖された。
「細入村史」参照

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P20 猪谷駅
 
 猪谷駅舎は、木造モルタル作りの鄙びた駅舎である。この駅に降り立った旅人たちが、駅舎を撮影する風景が定番になっている。秘境の駅にやって来たという気持ちにぴったりの駅舎なのだろう。
 駅舎は、飛越線の笹津~猪谷間が開通した昭和五年(一九三〇)に建てられたもので、その当時から、建物の様子は殆ど変わっていないという。高山本線が開通する昭和九年(一九三四)以前からこの地に建ち、豪雪にも負けず、昭和と平成の時代を見守ってきた駅舎である。駅舎の入口に掲げられている駅名の看板は、少し歴史は浅いが、手書きで書かれていて、これも旅人たちには人気がある。猪谷駅は、JR東海とJR西日本の境界の駅で、この駅で、運転手と車掌の引継ぎが行われる。そのことがあるのか、乗り降りする客がきわめて少ない駅ではあるが、「特急ひだ号」が停車する。             
「細入村史」参照

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P21 猪谷関所館 
 
 猪谷関所館は、富山市の施設で、猪谷駅から徒歩二分の所にある。昭和六十三年(一九八八)に建てられた。建物が、少し奥まった所にあるため、気が付かないで素通りする旅人もいる。
 猪谷は、越中と飛騨の国境で、古くから軍事的な要衝で、江戸時代には「富山藩西猪谷関所」が置かれていた。
 猪谷関所館には、当時の古文書・武具・用具や江戸時代の僧円空が彫った仏像など、貴重な資料が多数展示されている。また、険しい神通峡を渡った「籠の渡しの模型」も設置されている。
「細入村史」参照

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P23 猪谷駅前商店街

 猪谷商店街の歴史は昭和五年に始まる。昭和五年(一九三〇)十一月、飛越線が猪谷まで開通すると、昭和六年、三井鉱山は、ただちに神岡軌道を飛越線の猪谷駅構内へ乗り入れた。この乗り入れによって、猪谷は重要な貨物駅としての性格を持つようになった。それに伴い、三井鉱山は、猪谷に駅舎・倉庫・社宅等を多数建設した。細入村も猪谷駅から真直ぐ県道につながる村道を建設した。これが、現在の駅前通りである。
 駅前通りが建設されると、その両側には、続々商家が並ぶようになり、片掛から郵便局も移転した。この頃、営業を始めた商家には、水腰酒類販売店、森下友蜂堂、早瀬亭、宮口精米所、土田洋服店、魚国商店、江尻商店などがある。また、駅前通り以外にも鮮魚店、雑貨店、理髪店、和菓子店などが建ち、大きな活気を呈していた。
 平成に入り、神岡鉱山の縮小、神岡鉄道の廃線など大きな変化があり、戸を閉めている商店が目立つようになった。古い話になるが、笠智衆と宇野重吉が「ながらえば」というテレビドラマで酒を酌み交わした金山旅館も何年か前に廃業した。寂しい商店街になりつつある。     
「細入村史」参照

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P24 猪谷関所公園

 昭和六十三年(一九八八)、「ふるさと創生一億円資金」で、神通川左岸の川べりに作られた公園である。
 国道から公園に通ずる遊歩道の壁面には、「猪谷若衆歌舞伎」「獅子舞」「僧円空と仏像」「籠の渡し」等のレリーフが飾られた。桜の木が植えられた公園には、滑り台、展望あずまや、バーベキュー棟、トイレなどが設置され、家族連れで楽しめるように整備されたが、近年になって、遊具や施設の老朽化が進み、現在は公園として利用できない状態になった。平成二十三年(二〇一一)、国道四十一号線のバイパスが、ここを通ることになり、すぐ近くで工事が始まった。                     
「細入村史」参照

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P25 神峡橋 
 
 猪谷と舟渡を結ぶ鉄骨アーチ型の赤い橋が神峡橋である。幅四・五メートル、長さ一四五メートルの永久橋として、昭和四十四年(一九六九)に建設された。 
「細入村史」

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P26 天然記念物猪谷背斜向斜

 猪谷地区から対岸の舟渡地区に架かる「神峡橋」の下の崖にあり、湖水の中にかくれていて、いつもは見ることができない。砂岩頁岩の互層が褶曲していて馬の背のように曲がっている所を「背斜」、馬の腹のように曲がっている所を「向斜」といい、地層が斜めになった所を「単斜」という。
 この「背斜」「向斜」「単斜」の三つを「三斜構造」といい世界でも珍しい構造が、この二十五メートルほどの間に見ることができることから、国の天然記念物に指定された。
 今は、対岸から湖水が減水した時に、褶曲が見える。東猪谷の発電所の対岸では、向斜構造が観察できる。
「細入村史」

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P27 富山藩西猪谷関所跡

 明治初めに関所が廃止された後、関所跡は、宅地や畑地として利用され、石畳や礎石が残っていたが、昭和四十年(一九六五)、国道四十一号線の拡張工事が行われ、今の関所跡は、ほんの一部しか残っていない。関所跡に立つ説明板には、次のように記されている。
 「西猪谷関所は、天正十四年頃(一五八六)から、明治四年(一八七一)までの約二八〇年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永十八年(一六四一)からは、橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視など国境の警備にあたっていました。
 番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ十四間、山手方へ三十八間の矢来垣があり、番所には常時鉄砲二挺等が備えてありました…」
 西猪谷関所の模型を、猪谷関所館で見ることができる。     
「細入村史」

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P28 大垣宗左衛門の墓
 
 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。
 宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門はうまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである
 そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。
 森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪(サメの歯?)」なるものがあったが、昭和十六年(一九四一)の大火によって消失したという。 
「細入村史」

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P30 氏神八坂社
 
 猪谷 八坂社の主祭神は、建速須佐之男命で、安政年間に祀られたと言われている。「八幡宮」「神明大神宮」「牛頭天王「「石動大明神」「諏訪大明神」などが合祀されている。
 春祭りでは、勇壮な獅子舞が奉納される。境内には、日露戦勝記念碑、御大典紀念碑がある。        
「細入村史」

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P31 稲川治助顕彰碑

 八坂社境内にあるこの碑は、明治二四年(一八九一)の銘がある。稲川治助は、当時この界隈で並ぶものがなかつた相撲取りであったという。安政四年(一八五七)に猪谷で生まれ、大正一三年(一九二四)に死去した。石碑には、「千代獄門弟 稲川治助」と大きく刻まれている。治助は、この界隈で名をなしただけでなく、中央の相撲界にまで挑戦したという説もある。猪谷を中心とした対岸の村々を含む広い範囲の青年たちが勧進元となって碑を建てたことを考えれば、近在にはよほど鳴り響いていたのであろう。
「細入村史」

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P32 猪谷中学校跡 
 
 昭和二十二年(一九四七)、義務教育が六・三制になり、猪谷中学校が発足した。当初は、猪谷小学校の一部を借りての授業だったが、昭和二十三年(一九四八)、校下あげての協力により、猪谷の高台に、校舎が新築された。
 昭和三十七年(一九六二)、生徒数が二〇七名にもなったが、その後、生徒数が減少し、中学校は廃校となった。
 跡地には、村営住宅が建てられ、校舎は、コンデンサー工場となったが、村営住宅は老朽化により取り壊され、工場も不況により撤退した。平成十五年(二〇〇三)、シイタケ栽培工場「シーテック細入」が建設され、細入の特産品生産に動き出した。        「細入村史」

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P33 金剛山西禅寺

開基は大渕寺七世の盛厳で慶長九年(一六〇四)創建した。塼仏三体、観世音菩薩、涅槃絵像、十三仏絵像、大鑿、韋駄天像、稲荷大明神像、烏枢瑟摩明王像、曼荼羅絵、虚空蔵菩薩、三十三観音像、聖観音菩薩、地蔵尊、如来型地蔵尊がある。      「細入村史」

 「猪谷集落の南の小高い森の中に、西禅寺というお寺が建っています。
 この寺は、今から二百年余り前は、旧猪谷中学校跡の北側の方に建てられていました。 
 ある年、山津波のため、この寺は押し流され、泥や石で押しつぶされて、跡形もなくなってしまいました。集落の人たちは、崩れた土の中から、ご本尊や寺の道具を掘り出しましたが、一番大切な過去帳、即ち、お寺の歴史を書いた書類がどうしても見当たらず、西禅寺がどのようにして造られたのかが、分からなくなってしまいました。
 猪谷中学校を建てる時、たくさんの卒塔婆や墓石が掘り出されました。これから察しても、大きなお寺だったことが分かります。後に、高い石段の上に、立派なお寺が再建され、今日に至っています。」
丸山博編「猪谷むかしばなし」

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P34 六地蔵

 西禅寺西の裏道の脇にコンクリートのお堂がある。中には、六体のお地蔵様が並んでいる。以前は、旧飛騨街道にあったのだが、ダム湖に沈むので、ここに移された。細入地域の中では、最も古い六地蔵で、江戸時代中期に作られたものである。 「細入村史」

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P35 塩屋秋貞の墓

 天正十一年(一五八三)、塩屋秋貞は、上杉軍の越中城生城主、斉藤信利に攻め入った。戦いは攻勢だったが、上杉景勝の援軍が到着して劣勢となり、飛騨に退却する途中、西猪谷砂場で、鉄砲に撃たれた。瀕死の重傷になった秋貞は、戸板に乗せられて運ばれて行ったが、猪谷の塔婆坂で息を引き取った。 
 今も、猪谷の旧飛騨街道近くの山の中に、塩屋秋貞のお墓が残っている。     
「細入村史」

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猪谷の紹介
 
 国道四十一号線沿いに人家が密集し、小さな町にやって来たという感じがする集落である。中心には、高山本線猪谷駅があり、駅前には、郵便局や商店街がある。
 細入村史には、「イノシシが多く住んでいたことによる説と、『井の谷』すなわち水の得られやすい地という説などがある。」と紹介されている。
 江戸時代の頃の猪谷の家並の多くは、山の斜面を登る桐谷道に沿って広がっていて、神通川に近い所を通る飛騨街道周辺には家が少なかったそうだ。人々は、急流の神通川沿いを避け、なだらかな山の斜面に生活の場を見つけて住んでいたようだ。今も、桐谷道周辺には、田畑がたくさん見られる。山の斜面を切り開いて、田畑を作っていった先人達の苦労が、棚田に積まれたたくさんの石垣から偲ばれる。
 江戸時代には、猪谷に関所が設けられ、飛騨街道を行き交う人々を厳しく監視した。国道四十一号線の山下自動車整備工場前には、富山藩西猪谷関所跡の碑が建っている。
 猪谷が大きく変貌するのは、昭和五年(一九三〇)に開通した飛越線の猪谷駅ができてからである。神岡鉱山専用軌道が乗り入れ、鉱山物資の搬出入が始まり、駅前には三井鉱山のおびただしい施設が作られ、駅前通りには商店街がひしめくようになったという。 
 昭和四十一年(一九六六)、国鉄神岡線が開通し、三井専用軌道は、役目を終えた。昭和四十二年(一九六七)、生徒数の減少により、猪谷中学校は楡原中学校と統合し、廃校となった。昭和四十九年(一九七四)、三井鉱山アパート二棟の建設があり、二百人が入居した。
 平成に入り、三井鉱山の縮小、鉱山事務所、鉱山施設の撤去、神岡鉄道の廃線などが相次ぎ、猪谷の人口が急激に少なくなった。平成十五年(二〇〇三)、猪谷小学校は、楡原小学校と統合し、廃校となった。小学校跡地には、地区センターが建てられ、住民の憩いの場となっている。
「細入村史」参照

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江戸時代の頃の猪谷

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[ 2016/09/03 09:40 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

蟹寺の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 蟹寺の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 蟹寺城跡

 飛騨との各街道、河川を押さえる要塞で、経済、軍事の交流を掌握し防衛の拠点として城があった。城郭は北西、南東の二面に堀り切られてあり、幅二十三メートル、奥行き十二メートルの平坦地で中央がやや高くなっている。城跡は、城ケ山の頂上付近にある。
「細入村史」

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P5 電灯無償供与記念碑  
 
 秋葉神社からやや離れた小高い丘の上に碑がある。
 大正九年( 一九二〇)、当時の寒村にとって驚天動地ともいうべき、「出力五万キロワット」の発電所建設の構想と工事の申し入れが日本電力株式会社からあった。
 村としては工事に協力しながらも集落全体の利益について検討を重ね、その結果、対価と村全体で二五ワットの電灯一〇〇灯の永久無償供与と発電所の貯水槽からの水を農業用水に分水する契約を交わした証として城ケ山に記念碑が建立された。
「細入村史」

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P6 石仏群

 八月二十七日にあたる孟蘭盆会には、岩の祠に祀られている火の神、不動明王、薬師如来、弘法大師、三十三番地蔵に観音経を唱え、村の女性たちが盛大にお参りしたものである。
 このうち三十三番地蔵については一番から三十三番までは、以前、庵谷凌雲寺から峠道を辿って大渕寺まで設置されていたと伝えられるが、その一つである三十三番地蔵が城ケ山にある。
 「細入村史」

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P8 城ケ山広場 
 
 ここの広場で昭和初期に電力会社の協力によって、毎年八月二十七日の孟蘭盆会に合わせて相撲大会が行われた。近郷近在はもちろんのこと、遠くは能登からも参加し大いに賑わった。
戦後も復活し、賑わった場所である。    
 「細入村史」

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 P9 秋葉神社

 城ケ山の坂道を登り詰めた正面の建物は、火の神、風の神を祀る秋葉神社である。
 以前の社は天保六年(一八三五)に棟梁治四郎が建立したものであった。現在の社は平成十一年( 一九九九) 十月十五日に蟹寺出身の佐藤信春棟梁によって建立されたものである。
「細入村史」

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P10 城ケ山展望台
 
 付近の山並みと二本の川、右手に宮川、左手に高原川これらが合流して神通川となっている所が展望できる。対岸は加賀藩で東街道、右手が富山藩で西街道、挟まれた中央が飛騨の国天領で「籠の渡し」で中街道である。それぞれの要所になるので関所や番所が置かれていた。このように三つの川、三つの国、三つの街道を偲びつつ眺める絶好な展望台である。
 「細入村史」

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P11 徳本僧の名号塔
 
 城ケ山登道の曲り角にある石塔は、念仏の高僧と知られた徳本僧の名号塔である。
 僧は、寛政元年(一七八九)紀伊に生まれ、文化十三年八月に飛騨小豆沢から越中に入り蟹寺五郎兵衛屋敷で休憩されたとしている。この名号塔は村内唯一のものである。
 「細入村史」

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 P12 新国境橋
 
 越中と飛騨の国境の難所として有名な籠の渡しの場所には、明治五年( 一八七二) には刎板橋が架けられていた。明治九年( 一八七六) の蟹寺村絵図には、現在の国境橋近くに、板橋が書かれていて、ここには明治の初め頃から板橋が架けられていたようだ。大正十四年( 一九二五) 撮影の写真には、蟹寺と谷間に架けられた初代国境橋が写っている。
 
飛騨街道の往来が激しくなり、道路の整備とともに、橋も新しくなり、昭和初期から昭和四十一年( 一九六六)までは二代目のアーチ型国境橋が架かっていた。現在の新国境橋は、昭和四十一年( 一九六六) に完成したもので、長さは九七メートルである。
「細入村史」参照

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 P14 石仏群 

  新国境橋から旧国境橋に通じる旧街道沿いに六体の石仏が並んでいる。また、宮川を渡った対岸には、灯篭が土に埋もれて上部だけが見えるのが確認できる。宮川の流れの中には旧国境橋の橋脚もあり、ここは歴史を感じさせる場所である。

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P15 市川寛斎の詩碑跡 
 
 通称「橋場道」を降りた場所に、二体の浮彫り地蔵があり、そこからわずかに行った岩の台地に市河寛斎の詩碑が建っていた。この地は明治五年以降、荷馬引きの茶店や宿屋などが営まれていた。この地から上流二百メートルあまりの両岸から川にやや突き出している箇所が、かつての籠の渡し場である。
 平成十六年(二〇〇四)台風二十三号によって、かってないほどに宮川が氾濫し、この「詩碑」も台地諸とも濁流に飲まれ跡形もなくなった。
 しかし、平成二十二年(二〇一〇)九月、建立の場所から約三〇〇メートル下流の土砂の中から掘り出された。三分の二はしっかり形を留め、奇跡的と思えるほどである。現在、猪谷関所館に展示されている。 
「細入村史」

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 P16 石仏 
 
 猪谷から蟹寺への旧街道の入口、峠下の竹やぶの中に一体の石仏がある。時代の変遷とともに、現在は草木の中に埋もれ忘れ去られようとしている。

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 P16 旧慈眼院跡 
 
 山裾の清水が湧き出る場所で通称池田という沼地に蟹の妖怪が住みつき村人を悩ましていた。富山の海岸寺住職がこの慈眼院を訪れ、妖怪を退治したと伝承される旧慈眼院は、現在の田んぼより一メートルほど下がった場所であったとされている。    「細入村史」

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 P17 白山社
 
 鳥居をくぐると、慶応三年作の狛犬、天保十年( 一八三九)、安政四年( 一八五七) 作の石灯篭がある。神殿には、石川県にある白山比咩神社を総本山とする神様が祀られている。
 向って左には山の神、その後方に五重塔があり、これは太平洋戦争当時疎開していた高田鶴次郎が献上したものである。
 また、右には蟹寺間兵衛、五郎兵衛のいずれかが村の生計の糧としていた養蚕の女神を寄進したものが、祀ってある。昭和四十八年、円空仏二体が、神殿の中から発見された。神社境内には「アサダ」の木があり、県内では珍しい。
 「細入村史」

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P18 庚申様と納経塔 
 
 以前は村の南端に建てられていた庚申様は、人々が西国の霊場めぐりに旅立つときの道中の無事を祈願し、無事に満願成就して帰着した時などにお参りしたと伝えられている。
 また、納経塔は大渕寺二十七世の弟子の了宗尼が西国、秩父、坂東の百観音と西国八十八ヶ所巡礼を全うした証に建てられたものである。現在は、白山社脇に建てられている。
「細入村史」

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P19 五輪塔 
   
 昭和六十三年( 一九八八) 五月、故山口昌則氏の浄財で慈眼院住職の墓地を新しく整えた。その脇に、籠の渡し場における悲
話として語継がれている悪源太義平の妻と妹の八重菊、八重牡丹姉妹の五輪塔が二基安置されている。
「細入村史」

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P20 慈眼院と石仏群
 
  蟹の妖怪の伝説があった旧慈眼院は西の山裾にあった。当時富山の「海岸寺」からの月庵光瑛和尚が退治したもので、慈眼院は鎌倉期から江戸期に曹洞宗の別院であったと思われる。その後片掛大渕寺の末寺になった。戸数、人口などが増加したので現在地に移築された。
 慈眼院横の広場には丸彫地蔵立像、丸彫阿弥陀如来坐像、延命地蔵を含む六地蔵があり、御堂内には有名な立像円空仏や千手観音像が安置されている。

 また昭和の戦前戦後、村歌舞伎が盛んだった頃は慈眼院で催され、柱や梁などが外せるようになっていた。現在は老朽に伴う改築等によって見ることは出来ない。慈眼院は、現在、地区公民館になっている。
「細入村史」

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P22 越路トンネル 
 
 地方の主街道であった古川―猪谷線は峡谷を縫うようにして建設された道路であったため、昭和五十年代に入り国道三六〇号に昇格したものの、冬期間の県境は閉鎖され通行はまったく出来なかった。
 平成七年( 一九九五) にようやくトンネルの掘削に着手し、一億二千万年前と推定される草食恐竜「イグアノドン」の足跡の化石が発掘されるなどして、平成十二年( 二〇〇〇) 八月に二千六百二十メートルのトンネルが竣工した。福井県の博物館にその化
石が保存してある。
 「越路」という名称は、江戸時代初期の僧、円空が飛騨街道から越中に入った時に詠んだ歌に、「越路」の言葉が使われていたことから命名された。  
「細入村史」

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P23 大岩と稲荷の祠

 高田英弘宅の前にある大岩は、約百九十二トンあると推定され、岩の角が丸くなっていることから、上流から流されてきたものと判断される。この岩にある祠は、太平洋戦争時代に高田鶴太郎大工が稲荷の神霊を分割してここに建立したものである。
「細入村史」

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P24 五郎兵衛屋敷跡
 
 籠の渡しで財を成し、街道筋に屋敷を構え細入の大旦那とまで言われた。五郎兵衛は脇本陣役で幕府天領の見分け役で宿屋では十人雇い西山の開田をした。本陣役の井伊間兵衛は機織りと運送業をして土蔵が七つ、二~三十人も雇っていた。
 両家は、道路の建設や橋梁の建設によって籠の渡しの中街道、西街道を分岐する要路としての価値がなくなったことにより、没落していった。今は五郎兵衛屋敷跡の石垣のみがその名残を留めている。
「細入村史」

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 P25 籠の渡し跡

 籠の渡し場までの道筋を辿ってみると、城ケ山の峠から蟹寺の加藤剛宅と土蔵の間の道(道路拡張前は石畳であった)を通り、高田英弘宅裏の石垣沿いに進み、蟹寺トンネルの上を横切り、清水の流れ水と関電作業道が交差する箇所の斜面をわずかに残る痕跡から川筋に下りたところが籠の渡し場であったと考えられている。今は草が生い茂り、通行することができなくなっている。
 なお、江戸末期に使用されたとされる籠渡しの材料が加藤剛宅から発見され、関所館に展示されている。
「細入村史」

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P27 蟹寺発電所導水管
 
 宮川上流の打保で取り入れられた水は、宮川沿いに連なる山中に掘られた導水路を通り、蟹寺まで運ばれる。水路の長さは、
実に一四・三五kmに及ぶ。そして貯水槽から二本の導水管を通して放水される。落差百三十四・五メートル、使用水量毎秒四百三十六立方メートルである。
 この水によって二つの発電機が回され、最大出力五万キロワットの電力が作り出される。
「細入村史」

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P27  蟹寺発電所
 
 蟹寺発電所は、大正十四年( 一九二五)八月に一号機が運転を開始、二号機は翌年( 一九二六) 三月に運転を開始した。最大出力は五万キロワットで当時の東洋一であった。
 新設の頃は五十人近い勤務員がいたが、昭和三十年代に、設備近代化によって一人制御方式( ワンマンコントロール) が採用され、さらに昭和四十五年( 一九七〇) 八月以降は、所長以下四名という寂しい形になり、ついに昭和五十年( 一九七五) 十二月、遠方制御方式が完成して現在は全くの無人運転である。 
「電力史誌90年」参照

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P28 旧飛騨街道の石仏

 蟹寺から加賀沢への旧飛騨街道沿いに石仏が点在している。今は車では行くことができない。歩いて行かなくては見ることができないが、一見の価値あり。

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 蟹寺の紹介   
              
 高林 利三
 その昔、菅寺のこの地にわずか七軒しかなかったころ、西の山裾の清水が湧き出る場所に慈眼院という寺があり、その寺の前の沼地に「蟹の妖怪」が住み着き村人を苦しめていた。この話を聞いた富山の海岸寺の住職がこの地を訪れ、妖怪と禅問答の末、見事この蟹を退治し、それを称え村人は慈眼院を「蟹寺」と呼ぶようになった。それがいつの間にかこの地の地名となり、以後蟹寺村と称するようになったと伝えられている。
 承応四年( 一六五五) の村御印では村高は九十二石余、すべて畑地、銀納地代銀五六九匁二分七厘、慶応四年( 一八六八) の家数二八戸、一五一人すべて高持百姓であった。元禄期に円空が通り、村に仏像を残している。
 
 時代が進むにつれ、越中と飛騨の交易が盛んとなり、これを結ぶ街道が三つあった。この三街道の内、蟹寺から分岐する中街道は重要な街道であったが、随一の難所であった宮川を「籠の渡し」で渡らなければならなかった。歌川広重の版画「籠の渡し」
で知られている。

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 しかし、明治に入り道路建設と宮川に板橋が架けられたことにより要路としていた「籠の渡し」は価値がなくなり、必然的に姿を消していった。
 
 大正九年( 一九二〇) には日本経済の発展に伴い東洋一と言われるマンモス水力発電所「出力五万キロ」の建設構想が発表された。村人、ないし一般の人にとっても想像を絶するものであった。
 当時村の人口は約一五〇人ほどであったが、工事の最盛期には人口三〇〇〇人に達したといわれ、一四年( 一九二五) に完成し、関西電力の建設当時の集落状況図からは、都会並みのハイカラな生活様式であったことがうかがえる。この建設には村人も協力し、その対価として発電所の貯水槽から農業用水への分水と電灯一〇〇灯の永久無償供与を契約し、その記念碑が城ケ山に建立されている。この契約によって、田が開墾され、消火栓の設置や住居前の融雪装置など電灯と共に便宜を受けることとなった。

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 当時の運送力、技術力の乏しい中、五年の歳月をかけて建設され、中学校の教科書に写真まで掲載された発電所も時代の変遷により昭和五〇年( 一九七五) 十二月笹津制御所からの遠隔制御運転によって無人化され、それまで従事していた村人や社員は他へ配転となり、宿舎や社宅は撤去された。発電所の社員やその家族によって活気に溢れていた村も閑散となり、当時盛んった村歌舞伎の引き幕だけが当時の面影を語っている。
 昭和五〇年代に入り、五三年( 一九七八) に地区内道路拡幅工事により家屋の移転が始まり、翌年には蟹寺トンネル掘削工事に着工し、五五年( 一九八〇) に完成した。主要道路であった古川~猪谷線は国道三六〇号に昇格したものの、県境を縫うような道路であったため冬期間中は通行ができなかった。そこで、年間を通じた交通の確保を目指し改良工事が進められた。中でも現在の越路トンネルは富山県側工事区間の主要工事であった。その越路トンネルも平成十二年( 二〇〇〇) 八月竣工し、飛越を結ぶ大動脈が完成した。
 現在の国道三六〇号線は、幾多の歴史を綴った街道の代わりに現代産業や経済の発展のため大量の物資や人を運んでいる。                  
 
細入村史「蟹寺」の巻頭詞には、次のように紹介されている。

 蟹寺

   西街道と中道の合流点
     米のみのらぬ寒村の大立物は昔語り
   東洋一の発電所の出現を前に
     村人の団結毫もゆるがず
   融和の中に水利と文明の光を得る
     人は集り散じたが
   広い道路と美田に村は輝き
     伝説の寺をまもる心は今も

「細入村史」


江戸時代の頃の蟹寺

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[ 2016/09/02 08:41 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

加賀沢の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 加賀沢の史跡・見学ポイントの紹介地図

加賀沢史跡見学ポイント紹介最終印刷本02のコピー

P4 旧飛騨街道の野仏 
 
 加賀沢集落北の旧街道沿い、鉄道線路の防壁の裏の大きな岩の下に、三体の野仏が鎮座している。その一つが、文政元年(一八一八)と銘のある浮彫聖観音立像である。 他に浮彫子安観音坐像と弘法大師坐像がある。

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浮彫聖観音立像

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浮彫子安観音坐像

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弘法大師坐像


P5 立岩
 
 集落から約百メートルの宮川の真ん中に大きな岩が柱のように立っている。周りの流れはゆるく淵のようになっていて鮭や鮎
の休み場になり、素潜りしてヤスで捕る漁場であった。集落ではこの岩のことを立岩と呼んていた。
 猪谷駅から六キロも歩いて、職場、学校に通い疲れ果てている時、立岩を見て、「やっと帰った」と安堵する懐かしい岩なのであ
る。  「細入村史」

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宮川にある「立岩」
※立岩の高さは、水底から十一・一メートル、一億七千七百五十万年前( 中生代ジュラ紀)に変成した飛騨片麻岩であることが、杉谷和男氏の調査によって明らかになった。


P6 白山社
 
集落の真ん中ほどに今も鳥居とお堂が残っている。このお宮さんには、興味深いエピソードが残っている。昭和四十七年( 一九七二)八月のこと、美術文化研究会宮川村調査班が、この白山社を訪れ、拝殿の奥にかかっている紫の幕を上げたところ、円空仏五体が埃にまみれて鎮座しているのを発見した。
 この発見がきっかけとなり、蟹寺・猪谷・庵谷の集落で円空仏の発見が続き、細入村内で円空仏二十四体の発見につながったという。加賀沢白山社の五体の円空仏は、現在、猪谷関所館のロビー正面に展示されている。 
「細入村史」

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発見された円空仏

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白山妙理大権現 総高(51.7㎝)

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白山金剛童子 総高(26㎝) 
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観音像総高(11.2㎝)  虚空蔵菩薩 総高(16.2㎝) 白山不思議十万金剛童子 総高(26㎝) 


P8 猪谷小学校加賀沢分校跡 
 
 小学校のあった所は、樹木が生い茂り、見つけることが困難だが、白山社の南側にあったと地図に記されている。
 明治四十五年( 一九一二) 猪谷小学校加賀沢分教場として、民家の一部を借りて開校された。大正二年( 一九一三)、白山社参道南側に新校舎ができ、岐阜県東加賀沢の児童も受け入れた。大正末期に二階建に改築される。
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 昭和二十六年( 一九五一)、分教場より五十メートルほど南側に、新校舎が新築された。校舎一階は職員玄関と職員住宅として二間・児童玄関と体育室、裏側に台所と浴室、便所、二階は広い教室と職員室、資料室と小さいながら整っていた。その頃は、三十名ほどの児童がいた。昭和三十九年( 一九六四)、児童減少により廃校となった。
「細入村史」

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P10 加賀沢の石仏群
 
 加賀沢集落南端の道路脇に、小さなコンクリートの建物があり、その中にお地蔵さんが九体並んでいる。
 明治四十五年( 一九一二) の分教場の建設時に、白山社の境内にあった地蔵堂を整理し、谷向いの地蔵様を含めて、こ
の場所にお堂を建て直し、集められたとのことだ。
 どのお地蔵さんも、新調したばかりの赤い帽子と前掛けを身に着けて、仲良く鎮座している。今も欠かさずお世話をし
ている人がいるようだ。

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加賀沢の石仏群


P11  加賀沢橋 

飛越国境にある飛騨加賀沢と越中加賀沢は、幕政時代から、宮川を舟で往復していた。昭和の初めごろ、初めて歩道橋が架かった。これが初代の加賀沢橋で、幅一メートルの木吊橋で、風の吹くたびに大きく揺れるので、番線を張って振り止めをし、安全
を保った。しかし、昭和二十年( 一九四五) 九月の大風で墜落した。その後もかろうじて橋を架け替えて利用していた。
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初代加賀沢橋

 昭和四十七年( 一九七二)、関西電力株式会社が新しく橋を架け替え、電力関係や山行きの人々が利用するようになった。これが二代目の加賀沢橋である。橋の幅員一メートル、延長六十メートル余、歩道橋鋼吊橋で、振り止めの番線を張ってはあるが、宮川の激流を下に見れば、目もくらむばか11りであった。
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二代目加賀沢橋

 現在の加賀沢橋は、平成十二年( 二〇〇〇)、国道三六〇号線の小豆沢~蟹寺間が大きく改修された際に、加賀沢トンネル入口に、鉄筋コンクリートの立派な橋として生まれ変わった。
「宮川村誌」 「細入村史」参照
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現在の三代目加賀沢橋


 P13 国道三六〇号線バイパス道路

 国道四一号線が通る神岡~数河高原~古川のコースは、高低差が大で急坂が多い。一方、国道三六〇号線は、県境付近では急坂はないが、宮川の深V字谷に沿って屈曲し、しかも道幅はきわめて狭く、車がすれ違えない所も数多くある。
 このような宮川沿いの交通難所を解消するための努力は、平成元年(一九八九)から本格的に進められた。富山県側の加賀沢
~猪谷間四・五キロメートルは富山県が細入トンネル建設と道路改修を、岐阜県側の加賀沢~小豆沢間二・三キロメートルは国
が直轄事業として、改修工事を進めた。
 平成十二年(二〇〇〇)八月二十八日、「国道三六〇号バイパス 細入バイパス・宮川細入道路」が完成し、開通式が行われた。
 新しくできたバイパス道路は、要所をトンネルでつなぎ、橋は冬期間でも安心して通行できるシェルター構造になっている。北から越路・加賀沢・飛越と三つのトンネル、その他六つの橋が新設された。道路はほぼ直線状となった。
 「細入村史」

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P15 東加賀沢集落跡記念碑
 
 加賀沢橋を渡り、加賀沢トンネル手前の道を上っていくと東加賀沢集落跡(岐阜県飛騨市宮川町)に着く。
 現在、東加賀沢集落があった所には、記念碑が建てられ、小さな公園になっている。記念碑には、「ふるさとに想う」という題で、次のように刻まれている。
 「先人達がいつごろからか、この人里離れた小さな斜面の土地を切り開き、家族同様に住民が寄り添い、永住の地として生活していた。しかし冬期間、交通が遮断され孤立状態となり、病院、学校その他あらゆる面で不便を痛感した。
 昭和三十年から四十年代にかけて不安と動揺を感じながらも子供の将来を考え、住民それぞれが離村を決断した。 
 平成十二年( 二〇〇〇) に国道三百六十号 小豆澤~蟹寺間が改修され、加賀澤の地形が大きく様変わりした。このため、人々の記憶から忘れられることがないよう加賀澤住居跡地に石碑を建て後世に申し伝えることにする。 平成十二年( 二〇〇〇) 八月建立」
東加賀沢に住んでいた人たちは、「加賀沢会」を組織し、年に一度、富山市に集まり、故郷を偲んでいる。

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P17 不動滝 
 
 東加賀沢、宮川右岸の渓谷にかかる垂直の瀑布のことをいい、幅五メートル、直下五十五メートル余。水は流れて直ちに宮川に
注いでいる。この滝へ続く道は、今は閉ざされてしまった。
 不動滝は、西加賀沢地内水上橋から、越中西街道を蟹寺方向へ二十分ほど歩いた所から眺めることができる。
 屹立した付近の山容と相まって美観を呈し、特に夏秋の眺めがよいので知られている。 高山本線の窓から対岸にその全容が眺められ、奥飛騨の旅情をそそるのもまた一興である。
 明治・大正の頃、この滝の上に、建坪九坪余の拝殿があり、不動尊を安置していた。昔より、眼病の霊験著しく、また養蚕守護の神として参詣者も多かった。しかし、その後、二回の火災に見舞われ、かつ交通も不便なため、本尊は巣納谷の久昌寺へ移し、現在に至っている。
 「宮川村誌」

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加賀沢の歴史

 猪谷から国道三六〇号線を走り、二六二〇メートルの越路トンネルを抜けて、しばらく行った所が、「加賀沢」である。現在は無人の集落ではあるが、家が一軒残っている。昔からこの地に住む持ち主の家で、夏場には、避暑に訪れているという。
「蟹寺から宮川を遡ること四キロメートル、宮川左岸のわずかな傾斜地に、国境の小村『加賀沢』がある。江戸時代から明治期にかけて九戸の村であった。『カガ』という地名は、草地に由来するという説と、崖地に由来するという説がある。
 対岸の岐阜県側にも加賀沢という集落があり、細入側の西加賀沢に対して、東加賀沢と呼ばれた」
「細入村史」

 岐阜県宮川村誌に、「東加賀沢」の地名の由来について記述があるので紹介しよう。
 「祢宜ケ沢上(ねががそれ)・小豆沢(あずきざわ)などのように、昔のこの地は沼沢地で、一面に野生の『蘿藦(ががいも)』がよく茂ったので『蘿藦沢(ががいもさわ)』とよび、それがしだいに転訛して加賀沢となったかといわれている。
 ががいもは山野に自生する宿根蔓草で、葉は対生し、夏のころ紫色五弁の小花をつける。実の長さは七、八センチでこれを採って綿に代用した。地名にはその地に生い出るものの名をもって、名付けたものが多く、たとえば、『古事記』上巻に天の蘿藦船(ががみのふね)を、『書記』には白藦皮舟(かがみのかわふね)とある。『和名抄』や『本草』に蘿藦(ががいも)は、一名藦蘭(かが)・和名加加美(かがみ)・白藦(かがみ)、夜末賀々美(やまかがみ)、徐長卿に和名比女加々美(ひめかがみ)などとある。」
「宮川村誌」
 
 その昔、この辺り一帯は、草が生い茂る沢地であったようだ。東加賀沢は、昭和三十九年( 一九六四) に廃村化している。
 
 「江戸期の加賀沢は、水田がなく、わずかな畑地と山や川の恵みに頼っての生活であったと思われる。細入谷の中でも、税率はとりわけ低く、街道の物資輸送に携わるほかは、平野部とほとんどかかわりのない生活が、そこに展開していたのであろう。国境といっても、このぐらい奥地になると、東加賀沢や小豆沢方面とは、日常的な往来が盛んであった。

 明治初期の加賀沢は、水上谷の南、街道の山側に家が並んでいた。
 明治二十年( 一八八七) 近くに飛騨街道が改修され、明治四十五年( 一九一二)に猪谷小学校加賀沢分教場ができた。これに伴い、対岸の東加賀沢からの委託児童も通学するようになったため、独立の校舎が大正二年( 一九一三) に建てられた。
これから以後、集落は様変わりし、道路の川側にも新しい家が建てられた。一時、黒鉛が掘られたこともあった。

 この状態は昭和三十年代まで続いたが、昭和三十九年( 一九六四) に加賀沢分校が廃止され、このころから急激に挙家離村が進むようになる。…そして、加賀沢は村落社会としての機能を全く失ってしまった。その離村先の多くは、富山市・大沢野町方面であった。」
「細入村史」

 江戸時代の頃の加賀沢
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村田長保筆  「細入村史」
[ 2016/08/28 19:43 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

笠寺観音かいわいの風景

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[ 2016/08/07 09:34 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

水彩画展開催

水彩画展を開催しますので、お知らせします。

市民病院水彩画展はがき

[ 2016/07/04 19:12 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「神通峡ふるさと創生物語」という住民グループを結成

2016 年6月8日の北日本新聞に、細入・大沢野地域に、「神通峡ふるさと創生物語」という住民グループが結成された記事が掲載されています。
神通峡と呼ばれるこの地域は豊かな自然に囲まれ、歴史は古く、いろいろな史跡や伝統文化が残っています。しかし、過疎化や高齢化が進み、文化や歴史などの継承がたいへん難しくなりつつあります。
「何とかしなくては」という思いに駆られた人たちが集まり、活動を始めました。自分たちの力でふるさとをこれからどう創り変えていくのか、ふるさと創生物語にふさわしい取り組みをしようと頭をめぐらし始めました。今回はその1回目、猪谷地域を散策します。
北日本新聞
[ 2016/06/09 17:00 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

楡原の史跡・見学ポイントガイドブック

楡原の学ポイントガイドブックを作りました。B6サイズのポケットブックで52頁です。これを持って楡原地域を歩けば、史跡や建物の説明があり、それ歴史がよく分かります。本は細入図書館・大沢野図書館・富山市立図書館に寄贈しました。そのうち公開されるのではないでしようか。

楡原史跡紹介ガイドブック表紙のコピー

本の内容を紹介します。

楡原の史跡・見学ポイントガイドブック

目次

①集落北の題目塔
②畠山重忠の石標
③ライスセンターと耕心碑
④楡原館跡
⑤畠山重忠の墳墓
⑥楡原八幡宮
⑦楡原中学校
⑧神通碧小学校
⑨行幸記念碑 
⑩住吉家丹後の局の墓 
⑪住吉遠山翁碑
⑫和みの家
⑬五輪塔群集積地
⑭集落中央の題目塔
⑮江尻家文書
⑯旧北部保育所跡
⑰北陸電気工業
⑱八幡社
⑲上行寺と三帰明王
⑳ほそいり保育所
㉑観光橋
㉒旧布尻橋橋脚
㉓旧役場跡と忠霊塔
㉔運送同業組合の碑
㉕藤井家東郷園
㉖楡原駅
㉗細入中核型地区センター
㉘布尻楡原大橋
㉙雨乞の滝
㉚シーテック細入
㉛集落南の題目塔
㉜楡原の衝上断層
㉝楡原山城
㉞楡原の地名の由来
㉟楡原の春季祭礼
㊱江戸時代の頃の楡原


楡原地図さいしんのコピー

以下をクリックすると、さらに詳しいガイドブックが見られます。
楡原史跡・見学ポイントガイドブック

これからも各各集落毎のガイドブックを作る予定でいます。岩稲集落、猪谷集落は近日中に完成の予定です。

[ 2016/05/08 19:23 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

改正版「笠寺の時刻表」完成

2016年4月のダイヤ改正に伴い、市バスとJRの時刻表がかいせいされました。 「笠寺の時刻表」ちらしを作り直しました。笠寺観音商店街の各お店に置きますのでご活用ください。


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[ 2016/04/08 14:47 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

神通峡ふるさと歩行会のしおりを編集し本にしました

神通峡ふるさと歩行会の平成12年度・14年度のしおりを編集し、本にしました。本は富山市立図書館・細入図書館・大沢野図書館に寄贈しました。
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[ 2016/03/21 17:49 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「神通峡を訪ねて 第五集 岩稲かいわい」 完成

「神通峡を訪ねて第五集 岩稲かいわい」がようやく完成しました。取り掛かり始めて三年近くの年月がかかりました。途中私の病気で中断したことが最大の理由でしたが、病気も徐々にではありますが、回復し製本にこぎつけました。富山市立図書館、富山県立図書館に寄贈したいと考えています。

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目次

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[ 2016/02/26 19:07 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

笠寺観音ガイドブック完成‼

笠寺観音の建物や石碑などを紹介するガイドブックをもんぜん亭の皆さんのご協力により完成しました。この1冊があれば、笠寺観音の歴史や建物、石碑などが詳しく理解できます。
節分に間に合わせようと製本作業を頑張り80冊完成させ、かんでらMONZEN亭に送りました。節分には笠寺観音商店街で販売されます。なお、代金の一部は笠寺観音再整備事業に寄付されます。

笠寺観音ガイドブック(修正)表紙のコピー

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[ 2016/01/26 13:58 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

2016年カレンダー

2016年カレンダーを作りました。
ご入用の方はダウンロードしてお使い下さい。
実物は2L判です。


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[ 2015/12/26 15:58 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

がん乗り越え本製作 細入の佐田さん

2015年11月24日 22:15  北日本新聞web
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■神通峡の民話まとめる

富山市楡原(細入)の佐田保さん(67)が、昨年見つかった食道がんを乗り越え、同市細入、大沢野地域に伝わる民話114編に挿絵を添えた本を自主製作した。抗がん剤の副作用に苦しみながらも入院中から編集を続け、手作業で製本した。 (大沢野・大山支局長 池亀慶輔)

佐田さんは名古屋市出身。同市で小学校教員として働き、旅好きが高じて52歳で退職した。妻の陽子さん(66)の実家がある旧細入村楡原に移り住み、デザイン会社を営む傍ら全国各地を旅して水彩画を描いた。
細入村史にある伝説に魅了され、多くの人に知ってもらおうと、伝承を掲載した小冊子をJR猪谷駅や富山市猪谷関所館で無料配布。絵本も手作りした。

昨年11月、急に食べ物が飲み込めなくなった。医師にがんを指摘され「生存率は3分の1」と言われた。市内の公的病院に入院し、抗がん剤と放射線による治療を受けた。
ことし3月までの入院で体重は20キロ近く減った。気だるさや微熱に悩まされる日々。しかし、「まだ紹介できていない民話がある」と決心し、これまでの集大成として本を作ることにした。
病室へのパソコンの持ち込みは禁止。知人から借りた資料を基にスマートフォンで原稿を入力した。資料はいずれも地元の有志によるもので傷みが激しく「このままでは埋もれてしまう」と危ぶんだ。スケッチブックも持ち込み、民話の情景を鉛筆や筆ペンで描きためた。

今回作った本のタイトルは「昔話集 神通峡かいわい」。引用元を明記した上で、これまで小冊子や絵本にしていなかった約50編を新たに加えた。てんぐやカッパが登場する不思議なストーリー、地名の由来などを収録している。A5判232ページ。ことし9月に完成し、10月に地元の小中学校や図書館に贈った。
佐田さんは「神通峡の民話を残したい一心だった。子どもたちに知ってもらいたい」と話す。本に関する問い合わせは佐田さん、電話076(485)9103。
[ 2015/11/28 09:13 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

飛騨市神岡への小旅行 (10月27日)

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午前10時過ぎ飛騨市神岡へ上さんの車を借りて出発した。天気はいいが強風が吹いていた。神岡も強風が吹いていると少し辛いが、山間の町だから風は大丈夫だろう。
国道は空いている。車の流れに乗って神岡まで突っ走った。途中の紅葉を眺める余裕は全くなく、25分ほどで神岡の道の駅に到着した。

まずお目当の朝市の野菜売り場に行った。美味しそうなカブが並んでいる。カゴいっぱいにカブを買っている人が何人もいた。大きな赤カブが1束100円である。手が出るのも仕方ない。私も美味しそうな赤カブを1束買った。お目当のキノコも見つけた。シイタケとムクダイというキノコが並んでいた。ムクダイは以前食べたことがあったので両方とも購入した。合わせて350円だった。今晩はキノコ鍋になりそうだ。

道の駅にはノーベル賞受賞が決まった梶田隆章さんの受賞祝いのステッカー、新聞、受賞の寄せ書きなどが展示されていた。カミオカンデがまたまた世界から注目されている。神岡はこれで元気にならなければいけないのだが、道の駅の雰囲気は以前に比べると活気がないように感じた。これも日本経済が落ち込んでいるからだろうか。

車を神岡城の駐車場に止め、神岡の町を散策した。急坂を下り、最初に行ったのが藤波橋である。藤波橋横の葉桜が紅葉真っ盛りだった。藤波橋から上流の風景は、何年か前に描いた風景そっくりだった。
藤波八丁の散策路を上流に向かって歩いた。落ち葉が絨毯のように積もっていた。
神岡大橋まで歩き、帰りは朝浦八幡宮の横の道を通って城まで戻ることにした。以前水彩画を描いた急坂のところを通った。真冬の道でスケッチしていたあの時のことを思い出した。この坂道には電熱線が埋めてあり、不凍結になっていると土地の人が自慢していた。今もこの道には電熱線埋まっているのだろう。
藤波橋からお城へは急坂が続いたが、日頃のトレーニングのおかげで何とか上り切ることができた。体力はかなり戻っていると確信できた。もう大丈夫のようだ。

車に乗車。神岡のバローの横にある食品店を覗いた。この店にも地元産の野菜が並んでいる。やはりあった。高山産のナメコと地元産の天然ナメコを発見、これで今夜の夕食はキノコ鍋に決定した。

時刻は12時、昼食は以前お世話になった喫茶店で食べることにした。久しぶりに覗く喫茶店だ。ドアを開け店の中に入った。雰囲気が少し変わったように思ったが、カウンターの席に座った。残念ながらお上さんの姿は見えなかったが、奥で調理をしているのだろうと思った。

日替わりランチはカツ丼なので敬遠し、メニューから無難なビーフカレーを選んだ。野菜サラダもつけてもらった。しばらくして美味しそうなカレーが届いた。食べ始めたが、お上さんはなかなか奥の部屋から現れないので、カウンターの若い女性に「お上さんはいるの」と聞いた。何と、目の前の女性が「はい、私がお上です」と答えたのである。

いろいろ話してみて分かったのだが、お上さんは何年か前にこの店を廃業したとのことだった。息子さんを亡くされたことが一番辛かったそうだ。その後この店は二転三転したが、最近ここで喫茶店を始めたのが目の前の女性だったということだ。お上さんは、今は元気に別の所で働いているとのことだった。想像もしていない結果を知らされた昼食になった。

旧奥飛騨温泉口駅にある「あすなろ」に寄ってコーヒーを飲んだ。この店も水彩画展の時にはいろいろとお世話になった。店の雰囲気はそのままだったが、宮原さんの水彩画は一枚もかかっていなかった。残念だった。たぶんこの店のお上さんだと思う人が調理場で忙しそうに働いていた。声を掛けようかとも思ったが、私がお上さんの顔を忘れているようでは仕方がない。私はもう知らない人になってしまったような気持ちになり、声を掛けるのは止めた。時が経つということはそういうことなのだろう。土産にモカコーヒーを買った。
店の外の旧飛騨温泉口駅ではレールマウンテンバイクに乗るお客さんで賑わっていた。近々このマウンテンバイクを主人公にしたテレビドラマも始まる。この駅には活気が溢れていた。

帰りに神岡のバローに寄って、土産になりそうな漬け物を買い、爆速するトラックの後ろに付いて走り、我が家に午後2時に到着した。素晴らしい紅葉を楽しんだ神岡町小旅行だった。

夕食は、今日買ってきたキノコがふんだんに入った鍋だった。ムクダイというキノコは香りはないが食感がぬるっとしていて美味しかった。シイタケと天然ナメコはほんのり香りがありこれも美味しかった。今日の夕食はご飯をお代わりもした。キノコ鍋はこれからも食べてみたい料理のひとつになった。
[ 2015/10/29 13:26 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

細入村の気ままな旅人の展覧会開催

「大沢野町福祉を考える会」の絵画展が富山市婦中町福祉センターで開催されています。今年は私の水彩画が展示されました。絵は全部で11点あります。神通峡かいわいの風景です。開催は10月25日までです。ぜひお出かけください。

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[ 2015/10/21 16:32 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

笠寺観音かいわいを紹介するグッズ


第4弾 「ポストカードブック」を作りました!
私の水彩画の画集ですが、ハガキを一枚一枚外して使うこともできます。
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第1集 ポストカードで見る笠寺観音かいわい
笠寺観音かいわいの史跡の絵はがきを本にしました。

第2集 ポストカードで見る笠寺観音商店街かいわい
笠寺観音商店街かいわいのお店の絵はがきを本にしました。


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[ 2015/10/20 19:02 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

富山市楡原 JR楡原駅

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高山本線楡原駅、富山に引越した頃はこの駅は複線になっていてホームが二つあったが、やがて下りのホームが閉鎖され、今は一つのホームしかない。富山市と合併した頃、高山本線の増発実験と称して猪谷、富山間の普通列車が増発されたが、乗り降りするのは高校生や中学生ばかりで、実験も一年ほどで中止になった。
今も乗降客の姿は朝夕の通勤・通学時間帯にしか見られない淋しい駅である。
秋が次第に深まり線路脇の木々や雑草が色づいて来た。列車の窓から見た神通峡の紅葉はきっと最高だろうな。
[ 2015/10/20 09:58 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

富山市今生津  秋の神通峡



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楡原集落から神通峡に架かる観光橋を渡り対岸の道を下流に向かって歩いて行く。ほとんど人や車が通らない細い道が続く。この道は旧飛騨街道である。今でも道端の所々に野仏が残っている。時々この風景を求めてやって来る人の姿を見るが、この地域はクマやサル、カモシカなどが出没する。最近も観光橋をクマが歩いていたという地域無線の放送が流れていたから、歩くには鈴や携帯ラジオは欠かせない。
秋が深まり、紅葉した山々が、静かな川面に移る風景は見事である。
[ 2015/10/19 17:06 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

富山市岩稲  秋の神通峡

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今朝の富山市の最低気温は9度、細入は7度くらいではないでしょうか。部屋の中はストーブを焚いていますから暖かいですが・・・。
天気は快晴で、風もありません。ウオーキングには最高の日和です。山々の紅葉もさらに進み、黄色い色が見えるようになりました。今日は楡原から対岸の大沢野下夕地域の旧飛騨街道を下り、神通川第二ダムを渡り、岩稲を通って帰ってこようかなと思っています。ここに描いた風景が見られるのではないでしょう。帰りに楽今日館の温泉に浸かるのもいいかも・・・。
[ 2015/10/16 12:05 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「昔話集 神通峡かいわい」完成!


私のFacebookに連載していた「神通峡かいわいの昔ばなし」を収録した本を手作りで製作していましたが、ようやく完成しました。

この本には、細入地域と大沢野地域の昔話が114編収録されています。布地張りハードカバーの厚い本になりました。細入と大沢野の小中学校や図書館に寄贈します。

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昨日は、神通碧小学校、楡原中学校、ほそいり保育園に届け、喜んで受け取ってもらいました。
神通碧小学校では、四年生がちょうど昔話の教材に取り組んでいるところで、先生の机の上には、以前私が作って細入図書館に寄贈した昔話の絵本がたくさん積まれていました。今回製作した本も活用してもらえそうです。
[ 2015/09/12 17:23 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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